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自分のアップした写真を、電機屋のネットに繋がれたマシンや会社のマシンで見ると、いつも家で見ている絵とあまりにも違って愕然とすることがある。色はもちろん、諧調なんて話にならないくらい違って見える。笑ってしまうくらいだっ。
10人いれば10人が違った環境で見ているわけだから、デジカメの色や諧調やダイナミックレンジについて、少なくともディスプレイ上だけで見てあれこれ言うのは馬鹿げているのか?と思ってしまう。
つまりカメラの機種による僅かな画質の差より、鑑賞する環境の違いによる画質の差の方がトンデモナクはるかに大きいから、デジカメの画質について評論家のように細かな差を言うのは意味が無いのかとも思ってみたりした。はたしてそうなのだろーか。
今さらながら考えてみた。
***
10人いれば10人が違った環境で見ているわけだから、デジカメの色や諧調やダイナミックレンジについて、少なくともディスプレイ上だけで見てあれこれ言うのは馬鹿げているのか?と思ってしまう。
つまりカメラの機種による僅かな画質の差より、鑑賞する環境の違いによる画質の差の方がトンデモナクはるかに大きいから、デジカメの画質について評論家のように細かな差を言うのは意味が無いのかとも思ってみたりした。はたしてそうなのだろーか。
今さらながら考えてみた。
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前提として、各評価者は各環境で見た通りを客観的に意見すると仮定してみる。
(1)1つのデータを複数の環境で評価した場合は明らかに問題がある。
例えばあるデジカメの撮って出しのjpgデータを見て、複数の評価者が言うことを比べることには意味が無い。言うまでもなく各人の見え方が全く異なるからだ。
例えばB君が「E-420の色は忠実だ」と言うのと、C君が「E-420の色は原色を強調している」という2つの意見を比べて、どっちが正しいかと議論するのはほとんど意味がない。
(ディスプレイ環境をキャリブレーションすればその差は縮まる。が、思ったほど揃わないというのが素人「俺」の感想だ)。
(2)それならば、1つの環境の中での比較は意味があるはずなのだがどうだろーか。
もちろん(1)のケースに比べればずっと意味のある比較にはなる。しかし、例えばシャドー部の微妙な濃度差やグリーンの微妙な色の違い等は、適度に調整されたディスプレイでないと判断できないケースもかなりありそうだ。
今のデジ1の機種間の画質の差は、いいかげんな調整のディスプレイではその差を見分けられないくらいになっているかもだ。
仮に(2)のケースで比較することに意味があるとしよう。しかしネットの上ではその意見が一人歩きし、他者の意見と混じって事実上(1)の比較がなされて(実は意味がないのに)みんなそれに翻弄されているというのが実情ではないかな。
A氏の「(私の環境下では)A機とB機のダイナミックレンジ差はほとんど感じられない」
B氏の「(私の環境下では)A機とB機のハイライト部には明らかな差がある」
という記述は、単独では意味があるのだが、カッコ部分が完全になくなり、両者が比較された瞬間に意味がなくなるのだっ。
なぜそんな当たり前のことに騙されてしまうんだろーか。
***
今俺が「赤」だと思っている色を、もしかしたらあなたは「青」と感じているかもしれない。ところが各人それを生まれてこのかた「赤」と呼んで生きているから、各人の感じる色が違っていても何も困らないし、その違いを認識することすら出来ず「客観的」であると信じているに違いない。
違いがあるかどうか認識するには、頭をノコギリで切ってみて視神経を取り出し、互いの目と脳をつなぎ替えてみないとわからない(?)
デジカメで撮った写真をパソコンで見るということは、デジカメの出力するデータが「目」に相当し、パソコンの環境がその人の「脳」に相当すると考えて良いだろう。
ネットに上がっている画像データを各人がパソコン上で見るということは、同じ目で見た風景を各人がそれぞれの脳で判断するということに等しい。
同じ目で同じ風景を見ているから、みんな客観的なことを言えるような錯覚を覚えてしまうのだが、それは脳が各人の間で交換不可能だという肉体的常識が習慣化したことが原因なのではないかっ!(おおげさだな)。
ところが実際には脳に相当する「パソコンとディスプレイ」は相手の見え方と自分の見え方の違いを簡単に比べる事が出来るから、その見栄えが違っていれば客観的にモノを言ってはいけないのは当たり前であることに気付くのだがっ。
...んで、結論はと言うと、あれこれ言うのは意味がないようで意味があるような、ないような、んー、それぞれの人の心の中にある、ということにしておこー。
(1)1つのデータを複数の環境で評価した場合は明らかに問題がある。
例えばあるデジカメの撮って出しのjpgデータを見て、複数の評価者が言うことを比べることには意味が無い。言うまでもなく各人の見え方が全く異なるからだ。
例えばB君が「E-420の色は忠実だ」と言うのと、C君が「E-420の色は原色を強調している」という2つの意見を比べて、どっちが正しいかと議論するのはほとんど意味がない。
(ディスプレイ環境をキャリブレーションすればその差は縮まる。が、思ったほど揃わないというのが素人「俺」の感想だ)。
(2)それならば、1つの環境の中での比較は意味があるはずなのだがどうだろーか。
もちろん(1)のケースに比べればずっと意味のある比較にはなる。しかし、例えばシャドー部の微妙な濃度差やグリーンの微妙な色の違い等は、適度に調整されたディスプレイでないと判断できないケースもかなりありそうだ。
今のデジ1の機種間の画質の差は、いいかげんな調整のディスプレイではその差を見分けられないくらいになっているかもだ。
仮に(2)のケースで比較することに意味があるとしよう。しかしネットの上ではその意見が一人歩きし、他者の意見と混じって事実上(1)の比較がなされて(実は意味がないのに)みんなそれに翻弄されているというのが実情ではないかな。
A氏の「(私の環境下では)A機とB機のダイナミックレンジ差はほとんど感じられない」
B氏の「(私の環境下では)A機とB機のハイライト部には明らかな差がある」
という記述は、単独では意味があるのだが、カッコ部分が完全になくなり、両者が比較された瞬間に意味がなくなるのだっ。
なぜそんな当たり前のことに騙されてしまうんだろーか。
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今俺が「赤」だと思っている色を、もしかしたらあなたは「青」と感じているかもしれない。ところが各人それを生まれてこのかた「赤」と呼んで生きているから、各人の感じる色が違っていても何も困らないし、その違いを認識することすら出来ず「客観的」であると信じているに違いない。
違いがあるかどうか認識するには、頭をノコギリで切ってみて視神経を取り出し、互いの目と脳をつなぎ替えてみないとわからない(?)
デジカメで撮った写真をパソコンで見るということは、デジカメの出力するデータが「目」に相当し、パソコンの環境がその人の「脳」に相当すると考えて良いだろう。
ネットに上がっている画像データを各人がパソコン上で見るということは、同じ目で見た風景を各人がそれぞれの脳で判断するということに等しい。
同じ目で同じ風景を見ているから、みんな客観的なことを言えるような錯覚を覚えてしまうのだが、それは脳が各人の間で交換不可能だという肉体的常識が習慣化したことが原因なのではないかっ!(おおげさだな)。
ところが実際には脳に相当する「パソコンとディスプレイ」は相手の見え方と自分の見え方の違いを簡単に比べる事が出来るから、その見栄えが違っていれば客観的にモノを言ってはいけないのは当たり前であることに気付くのだがっ。
...んで、結論はと言うと、あれこれ言うのは意味がないようで意味があるような、ないような、んー、それぞれの人の心の中にある、ということにしておこー。




液晶とCRTでも違って見えるし、量販店で各社のモニターが
ずらーと展示されながらも全部色合いが違っているし、各人の
見る環境で違ってくるのは当然なのでしょうね。
にもかかわらず、どうしても画質なりの優劣をつけたがるのは
偏差値教育、成果主義などの影響なのかもしれませんね。
微妙な違いが、大きな違いと思わされて新機種を購入してしまうという
ことは用心しなければと、、でも金がないからどうしようもないですが。
ただ、自分のモニターで人様のブログを見ていて「おっきれいだ」と
感じる、それも同じカメラの機種で撮っているがあると、すごいなぁ、
どうやるんだろうと注目します。
そうですね。何かと比べるのは習性かも。
私は写真がスキなのではなくて、カメラがスキなので、どうでもいいカメラスペックの方に気が行ってしまいがちです。
もうだいぶ大人になっかなと思っていたのですが、中坊(中学生)のころの習性がふっと蘇ったりします(^^;)。ガキです。